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2009年03月 アーカイブ

2009年03月08日

七年戦争/フレンチ・インディアン戦争

マリア・テレジアはシュレージエン奪回を企図して外交革命をおこない、宿敵であったフランスと防御同盟(1756年)を結んでフリードリヒ2世のプロイセンに対抗したが、結果はシュレージエンのプロイセン領有を再確認にするにとどまった。北米大陸では、これより先に戦闘が始まっており、本国の支援を受けたイギリスの北米13植民地軍がインディアンと連合したフランス勢力に勝利した。1763年のパリ条約では、カナダおよびミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスへ、フロリダがスペインからイギリスへ割譲された。なお、ミシシッピ川以西のルイジアナはフランスからスペインに割譲されている。ここに、フランスは北米植民地のすべてを失うこととなり、イギリスの大西洋での覇権が確立した。インドでも、フランスのインド提督デュプレクス召還後にイギリス東インド会社書記ロバート・クライブ率いる英軍が、フランス・ベンガル土侯連合軍を撃破してイギリスのインドでの覇権が確立した。アフリカ大陸西部のセネガルもフランスからイギリスに割譲された。
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パリ条約(1763年)後の大西洋世界
ジブラルタルとメノルカ島
ユトレヒト条約(1713年)で地中海航行の中継地としてイギリスがスペインから獲得→メノルカ島は、アメリカ独立戦争後(1783年)にスペインに返還。ジブラルタルは現在もイギリス領。
セネガル
パリ条約(1763年)で奴隷の供給地としてイギリスがフランスより獲得→アメリカ独立戦争後にフランスに返還(1783年)
ルイジアナとフロリダ
パリ条約(1763年)でイギリスはフランスから東西ルイジアナを獲得したが、穀物の輸出地として必要なスペイン領フロリダと西ルイジアナを交換→フロリダは、アメリカ独立戦争後にスペインに返還(1783年)・西ルイジアナは、1800年ナポレオンによりフランスが奪回→アメリカ合衆国が西ルイジアナをフランスから(1803年)、フロリダをスペインから(1819年)それぞれ購入

プラッシーの戦い(1757年)後のアジア
東インド会社は設立当初から1640年頃までは貿易がおもな業務であったが、やがて植民、さらに武力による領土獲得を主とするようになり、1680年代になると徴兵権、士官任命権、土侯に対する宣戦・交戦権を獲得した。しかし、プラッシーの戦いののちは、明らかにインド人に対する統治機関へと変貌を遂げた。

1764年のブクサールの戦いでベンガル地方を制圧し、1765年のアラハバード条約によってイギリス東インド会社がベンガル・ビハール・オリッサの地租徴収権を獲得した。徴税権を与えたムガル皇帝は、その代償としてイギリス政府から年金を受けることになった。1774年には初代ベンガル総督としてヘースティングスを赴任させて首市をカルカッタに置いた。さらに、4次にわたるマイソール戦争(1767年?1799年)は南インドの、3次にわたるマラータ戦争(1775年 - 1818年)は中部インドデカン高原の植民地化を推し進めるものであった。

フランスはインドからの撤退を余儀なくされることとなり、アジアではインドシナへの転進を図る。1775年フランス人宣教師ピニョーがコーチシナに上陸、1802年にはピニョーの援助により阮福映がユエを都として阮朝越南国を建国した。

七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)が後世に与えた影響
17世紀の三十年戦争において樹立された(勢力均衡機構としての)「ヴェストファーレン体制」は18世紀中葉には完全に瓦解する(ただし、主権国家体制としてのそれは姿を変えながらも今日まで続いている)。
フランスは北米植民地とインドでの拠点を失い、イギリスの覇権が確立する(第一次大英帝国の成立)。
英領アメリカ13植民地はフレンチ・インディアン戦争後の国王宣言線に激しく反発し、さらに、この戦争の戦費を植民地人に負担させるため、英本国政府は13植民地に対し、砂糖法・印紙法などの諸税を課そうとした。これがアメリカ独立革命の原因となった。北米大陸におけるフランス人勢力が一掃されたことによって、かえって英領植民地は本国からの安全保障を必要としなくなってしまい、これがアメリカ独立を促した側面がある。
ルイ15世・ルイ16世統治下のフランスでは、度重なる外征の戦費と王家の豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。逼迫した財政状況を打開するため新税を導入しようとして三部会を招集したことがフランス革命勃発のきっかけとなった。

アメリカ独立戦争
1777年のサラトガの戦いに13植民地が勝利すると、イギリスとの植民地戦争に敗れたフランス・スペイン・オランダが相次いでイギリスに宣戦布告し、独立側に立って参戦した。さらにロシアのエカチェリーナ2世の提唱する武装中立同盟が、ロシア・プロイセン・ポルトガル・スウェーデン・デンマークによって結成され、イギリスは国際的に孤立していき、最終的には1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立を承認した。

フランス革命戦争?ナポレオン戦争
ルイ16世の処刑をきっかけに第1回(1793年 - 1797年)、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際の第2回(1799年 - 1802年)、ナポレオンの皇帝即位の際の第3回(1805年)、ナポレオンのロシア遠征失敗後の第4回(1813年 - 1814年)の4度にわたって対仏大同盟[2]が結成され、そのいずれにもイギリスが加わっている。なお、第1回大同盟はイギリス首相ピットの提唱によるものである。ヨーロッパ大陸制圧後のナポレオンはトラファルガー海戦の敗北ののち、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出してイギリス封じ込めを企図するが、成功しなかった。最終的には、ライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンが退位、ウィーン会議が開かれ、ブルボン朝が復活する。途中ナポレオンの百日天下もあったが、再開されたウィーン会議では、フランス外相タレーランが「正統主義」を主張、ヨーロッパの秩序はフランス革命以前の状態に復することとなった。

フランス革命で奴隷制度は理念上廃止された(1794年)。1807年にはイギリス・アメリカで奴隷貿易が廃止されたが、密貿易は依然続いていた(イギリス議会の奴隷制度廃止決議は1833年)。
ナポレオン戦争はまた、イギリスの覇権をより強固なものにする契機となった。オランダが革命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスはケープ植民地やセイロン島、東インド(インドネシア)などオランダ植民地を次々に占領した。イギリス船はオランダ商館が置かれた長崎にまで来航し、フェートン号事件を起こしている(1808年)。ウィーン議定書によって東インドはオランダに返還されたが、セイロンやケープ植民地は返還されず、イギリスは1815年セイロン島内陸部のカンディー王国を征服してセイロン植民地を成立させた。

結果
イギリスの勝利
この一連の抗争では、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)によってイギリスの優位が明らかになった。大英帝国の成立である(アメリカ独立以前を「第一次帝国」または「旧帝国」、独立以後を「第二次帝国」または「新帝国」と呼ぶことがある)。一方のフランスは北米植民地とインドでの拠点をともに失い、国内では絶対王政のゆきづまりが明らかとなって、フランス革命以後パリ・コミューンの終結に至るまで政治的激動の時代が続いた。

なぜイギリスが勝利したか
議会の承認により税収のほとんどを軍事費に投入できた(フランスは国王の浪費も財政に影響した)ため
議会が保証するイギリス国債の信用が高く、臨時の資金調達能力もすぐれていたため
アンシャン・レジーム下のフランスでは徴税権をもつ貴族が多く、国庫収入が少なかったため
すなわち、イギリスの戦費調達能力がフランスのそれを大きく上回っていたと見なすことができる。加えて、フランスがユトレヒト条約などにみられるように王位・王権に対する執着が強く、冷静に国益を見据えた外交政策を持たなかった点も指摘できる(ただしこれには異論もある)。

2009年03月23日

私鉄買収線

買収された私鉄は計14社、国有鉄道線としての路線数は計12線となる。各私鉄および各線を継承した路線の項も参照のこと。

仙北軽便線 [編集]
旧社名:仙北軽便鉄道
区間:小牛田 - 石巻間
買収:1919年4月1日
改軌:1920年5月23日
私鉄買収線の最初の事例である。鉄道敷設法に規定されていた石巻 - 小牛田 - 新庄間の予定線との重複から買収された。本来この区間は着工が決定されていなかったが、石巻港を拠点とする仙北軽便鉄道の好況を見て着工を決定し、買収に至った。

改軌は私鉄買収由来の特殊狭軌線の中でも特に早く、1年後の1920年5月23日には完了している。現在の石巻線の一部に相当する。
ワンド エリア ショール 二十世紀 スタス テーブ アニマロジ マクロレ オイスタ ライスワン キック フィー カウツギ バンダナ ディージ オクラ テランセラ タヒボ リーフ 夜汽車 カウチ ふたり星 ユリ最適 時空ド ミリタリー サギソウ トライプ ドーベ メリル プレタク チューブ カムカエ ラッター ソーサー ラクト バック 朝日が昇る ジプサム フェロモア ション デュアル ウォマ フラッシュ ルコア サイホン シンク タイガ デキャンタ ディスコン テーピング

魚沼軽便線 → 魚沼線 [編集]
旧社名:魚沼鉄道
区間:新来迎寺 - 小千谷間
買収:1922年6月15日
改軌:行われず休止(公式には1954年8月1日)
当線は上越北線(現在の上越線)が並行して開業したために青息吐息の状態で、1921年には補償を申請して廃止届を出すところまで行っていた路線が、一転して国有化されるという特異な経緯をたどったものである。表向きは鉄道敷設法の別表に規定されていた来迎寺 - 小千谷 - 岩沢間の予定線と重なることと、沿線に軍の駐屯地があったことを根拠に買収されており、他の路線と同じような予定線重複にともなう買収、また一種の補償買収にも見えるものであった。しかし実際のところ当線の買収は地元有力者や会社が当時の与党・立憲政友会に働きかけたことによって起こったもので、買収の決定も野党の憲政会による激しい反対を立憲政友会が無理矢理押し切る形で行われるなど、特定の政党が単独で計画し力にものをいわせて強行するという、極めて政治色の強いものであった。

このような経緯があったため路線の経営状態そのものは度外視であり、国有化後も並行線の問題が依然重くのしかかって当線の経営を圧迫し続けた。さらには貨物需要を担っていた発電所工事の中止や、第一次大戦後の軍縮によるあおりで軍の駐屯地が閉鎖されたことで存在意義が低下。改軌されずに塩漬け状態となり、ついには不要不急線に指定されて、1944年10月15日に全線休止されてしまった。

戦後、1954年にほぼ同じ経路で1067mm軌間の魚沼線が建設され、公式には特殊狭軌線が改軌されて復活した後継路線とされている。しかし実際には既に線路が消滅していた旧線の路盤を流用しながら新線を改めて敷設しており、実質的には「旧線を改軌して新線にした」というよりも「旧線を廃止して新線を一から建設し直した」という方が当たっている。なお、再建の際に来迎寺・西小千谷周辺は大きくルートが変更されており、この部分は完全な新設線ということになる。その再建された魚沼線も1984年に廃止されたため、いずれにせよ路線は現存しない。

なおこの魚沼鉄道買収まで、国有鉄道線としての路線名は「○○軽便線」とされていたが、1922年9月2日に「軽便線」の呼称が廃止され、特殊狭軌線も他の路線と同じく単に「○○線」と命名されるようになった。当線の最初の線名である「魚沼軽便線」が、途中で「魚沼線」と改称されたのもそのためである。

久留里線 [編集]
旧社名:千葉県営鉄道久留里線
区間:木更津 - 久留里間
買収:1923年9月24日
改軌:1932年8月20日
千葉県営鉄道の一路線で、当初は買収対象ではなかった。しかし大正末期に木更津を起点に内房と外房を結ぶ鉄道構想が起こり、これが鉄道敷設法に規定されていた木更津 - 久留里 - 大多喜 - 大原間の予定線と重なって、互いの利害が一致したことから買収された。この際、鉄道省は無償譲渡を条件に路線延長を約束しており、この取引から無償で譲渡されることになった。なお買収日が関東大震災の直後であり、実際に甚大な被害を受けていたことから、「震災被害の復旧費用の関係から無償で譲渡された」とする説があるが、上述の通り実際には無償譲渡は政治取引から出たことであって震災とは無関係であり、全くの俗説に過ぎない。

かくして政府と掛け合ってまで買収にこぎつけたものの、実際には鉄道建設予算の削減と政治的な事情から、約束は反故にされて長く改軌されないままとなり、県議会の抗議も門前払いの状態が続いた。何とか改軌にこぎ着けたのは、昭和に入った1932年8月20日のことであった。

路線名は改軌工事の際に一時「木原西線」とされたが、結局元の線名に戻り、現在の久留里線として継承されている。

太多線 [編集]
旧社名:東濃鉄道
区間:新多治見 - 広見間
買収:1926年9月25日
改軌:1928年10月1日
この「東濃鉄道」は、かつて駄知線・笠原線を運営し、現在も自動車会社として現存する東濃鉄道とは全くの別会社である。鉄道敷設法に規定された多治見-岐阜間の予定線を建設中、完全に路線が並行したことから買収された。ただし、敷設法の規定が大雑把で経路が読めなかったため、当初から買収される可能性が大きい路線であった。

これまでの買収は全て全線買収であったが、東濃鉄道の場合は新多治見 - 広見間のみの買収で、その先の広見 - 御嵩間は買収されなかった。この区間はのちに新設会社の東美鉄道に譲渡され、さらに名古屋鉄道に合併されて名鉄広見線の一部となった。なお特殊狭軌線時代には東濃鉄道時代のままに直通運転が行われていた。

改軌は太多線がその名のとおり、多治見 - 美濃太田間を全通させた1928年10月1日のことであった。現在も太多線の一部として現役である。

日高線 [編集]
旧社名:苫小牧軽便鉄道・日高拓殖鉄道
区間:苫小牧 - 佐瑠太 - 静内間
買収:1927年8月1日
改軌:1931年11月10日
苫小牧 - 佐瑠太間が苫小牧軽便鉄道、佐瑠太 - 静内間が日高拓殖鉄道に当たる。別会社であるが実質的に一つながりの路線であり、直通運転も行っていた。北海道鉄道敷設法にあった苫小牧 - 鵡川 - 浦河 - 広尾 - 帯広間の予定線と重複したため、両社同時に買収された。なお、日高拓殖鉄道には浦河延長の計画があったが、この買収が現実化したため中止して国にまかせることにした経緯がある。

改軌は苫小牧側が優先され、苫小牧 - 佐瑠太間が1929年11月25日に早くも改軌完了、佐瑠太 - 静内間の改軌は1931年11月10日まで持ち越された。現在も日高本線の一部として現役である。

なお、佐瑠太駅(現在の富川駅)から分岐していた沙流鉄道は自社車両を一切所有せず、全て苫小牧軽便鉄道の車両を用いていた。このため苫小牧軽便鉄道の国有化後は、私鉄ながら全て国有鉄道の車両が使用されているという変わった営業形態になった。日高線の改軌後は、特殊狭軌線時代の車両を譲り受けて自社車両としている。

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