七年戦争/フレンチ・インディアン戦争
マリア・テレジアはシュレージエン奪回を企図して外交革命をおこない、宿敵であったフランスと防御同盟(1756年)を結んでフリードリヒ2世のプロイセンに対抗したが、結果はシュレージエンのプロイセン領有を再確認にするにとどまった。北米大陸では、これより先に戦闘が始まっており、本国の支援を受けたイギリスの北米13植民地軍がインディアンと連合したフランス勢力に勝利した。1763年のパリ条約では、カナダおよびミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスへ、フロリダがスペインからイギリスへ割譲された。なお、ミシシッピ川以西のルイジアナはフランスからスペインに割譲されている。ここに、フランスは北米植民地のすべてを失うこととなり、イギリスの大西洋での覇権が確立した。インドでも、フランスのインド提督デュプレクス召還後にイギリス東インド会社書記ロバート・クライブ率いる英軍が、フランス・ベンガル土侯連合軍を撃破してイギリスのインドでの覇権が確立した。アフリカ大陸西部のセネガルもフランスからイギリスに割譲された。
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パリ条約(1763年)後の大西洋世界
ジブラルタルとメノルカ島
ユトレヒト条約(1713年)で地中海航行の中継地としてイギリスがスペインから獲得→メノルカ島は、アメリカ独立戦争後(1783年)にスペインに返還。ジブラルタルは現在もイギリス領。
セネガル
パリ条約(1763年)で奴隷の供給地としてイギリスがフランスより獲得→アメリカ独立戦争後にフランスに返還(1783年)
ルイジアナとフロリダ
パリ条約(1763年)でイギリスはフランスから東西ルイジアナを獲得したが、穀物の輸出地として必要なスペイン領フロリダと西ルイジアナを交換→フロリダは、アメリカ独立戦争後にスペインに返還(1783年)・西ルイジアナは、1800年ナポレオンによりフランスが奪回→アメリカ合衆国が西ルイジアナをフランスから(1803年)、フロリダをスペインから(1819年)それぞれ購入
プラッシーの戦い(1757年)後のアジア
東インド会社は設立当初から1640年頃までは貿易がおもな業務であったが、やがて植民、さらに武力による領土獲得を主とするようになり、1680年代になると徴兵権、士官任命権、土侯に対する宣戦・交戦権を獲得した。しかし、プラッシーの戦いののちは、明らかにインド人に対する統治機関へと変貌を遂げた。
1764年のブクサールの戦いでベンガル地方を制圧し、1765年のアラハバード条約によってイギリス東インド会社がベンガル・ビハール・オリッサの地租徴収権を獲得した。徴税権を与えたムガル皇帝は、その代償としてイギリス政府から年金を受けることになった。1774年には初代ベンガル総督としてヘースティングスを赴任させて首市をカルカッタに置いた。さらに、4次にわたるマイソール戦争(1767年?1799年)は南インドの、3次にわたるマラータ戦争(1775年 - 1818年)は中部インドデカン高原の植民地化を推し進めるものであった。
フランスはインドからの撤退を余儀なくされることとなり、アジアではインドシナへの転進を図る。1775年フランス人宣教師ピニョーがコーチシナに上陸、1802年にはピニョーの援助により阮福映がユエを都として阮朝越南国を建国した。
七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)が後世に与えた影響
17世紀の三十年戦争において樹立された(勢力均衡機構としての)「ヴェストファーレン体制」は18世紀中葉には完全に瓦解する(ただし、主権国家体制としてのそれは姿を変えながらも今日まで続いている)。
フランスは北米植民地とインドでの拠点を失い、イギリスの覇権が確立する(第一次大英帝国の成立)。
英領アメリカ13植民地はフレンチ・インディアン戦争後の国王宣言線に激しく反発し、さらに、この戦争の戦費を植民地人に負担させるため、英本国政府は13植民地に対し、砂糖法・印紙法などの諸税を課そうとした。これがアメリカ独立革命の原因となった。北米大陸におけるフランス人勢力が一掃されたことによって、かえって英領植民地は本国からの安全保障を必要としなくなってしまい、これがアメリカ独立を促した側面がある。
ルイ15世・ルイ16世統治下のフランスでは、度重なる外征の戦費と王家の豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。逼迫した財政状況を打開するため新税を導入しようとして三部会を招集したことがフランス革命勃発のきっかけとなった。
アメリカ独立戦争
1777年のサラトガの戦いに13植民地が勝利すると、イギリスとの植民地戦争に敗れたフランス・スペイン・オランダが相次いでイギリスに宣戦布告し、独立側に立って参戦した。さらにロシアのエカチェリーナ2世の提唱する武装中立同盟が、ロシア・プロイセン・ポルトガル・スウェーデン・デンマークによって結成され、イギリスは国際的に孤立していき、最終的には1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立を承認した。
フランス革命戦争?ナポレオン戦争
ルイ16世の処刑をきっかけに第1回(1793年 - 1797年)、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際の第2回(1799年 - 1802年)、ナポレオンの皇帝即位の際の第3回(1805年)、ナポレオンのロシア遠征失敗後の第4回(1813年 - 1814年)の4度にわたって対仏大同盟[2]が結成され、そのいずれにもイギリスが加わっている。なお、第1回大同盟はイギリス首相ピットの提唱によるものである。ヨーロッパ大陸制圧後のナポレオンはトラファルガー海戦の敗北ののち、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出してイギリス封じ込めを企図するが、成功しなかった。最終的には、ライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンが退位、ウィーン会議が開かれ、ブルボン朝が復活する。途中ナポレオンの百日天下もあったが、再開されたウィーン会議では、フランス外相タレーランが「正統主義」を主張、ヨーロッパの秩序はフランス革命以前の状態に復することとなった。
フランス革命で奴隷制度は理念上廃止された(1794年)。1807年にはイギリス・アメリカで奴隷貿易が廃止されたが、密貿易は依然続いていた(イギリス議会の奴隷制度廃止決議は1833年)。
ナポレオン戦争はまた、イギリスの覇権をより強固なものにする契機となった。オランダが革命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスはケープ植民地やセイロン島、東インド(インドネシア)などオランダ植民地を次々に占領した。イギリス船はオランダ商館が置かれた長崎にまで来航し、フェートン号事件を起こしている(1808年)。ウィーン議定書によって東インドはオランダに返還されたが、セイロンやケープ植民地は返還されず、イギリスは1815年セイロン島内陸部のカンディー王国を征服してセイロン植民地を成立させた。
結果
イギリスの勝利
この一連の抗争では、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)によってイギリスの優位が明らかになった。大英帝国の成立である(アメリカ独立以前を「第一次帝国」または「旧帝国」、独立以後を「第二次帝国」または「新帝国」と呼ぶことがある)。一方のフランスは北米植民地とインドでの拠点をともに失い、国内では絶対王政のゆきづまりが明らかとなって、フランス革命以後パリ・コミューンの終結に至るまで政治的激動の時代が続いた。
なぜイギリスが勝利したか
議会の承認により税収のほとんどを軍事費に投入できた(フランスは国王の浪費も財政に影響した)ため
議会が保証するイギリス国債の信用が高く、臨時の資金調達能力もすぐれていたため
アンシャン・レジーム下のフランスでは徴税権をもつ貴族が多く、国庫収入が少なかったため
すなわち、イギリスの戦費調達能力がフランスのそれを大きく上回っていたと見なすことができる。加えて、フランスがユトレヒト条約などにみられるように王位・王権に対する執着が強く、冷静に国益を見据えた外交政策を持たなかった点も指摘できる(ただしこれには異論もある)。