2009年07月01日

新古典派総合

その後、サミュエルソンやヒックスらのケインズ解釈によってアメリカ・ケインジアンの新古典派総合が成立し、ケインズのモデルは、価格が硬直な短期における古典派的一般均衡モデルの特殊ケースと理解されるようになった。(ただ、このアメリカ・ケインジアン的解釈は、一般理論の体系を雇用量が人々の期待によって制約される長期不均衡の体系と捉えていたポスト・ケインジアンによっては俗流ケインズ主義との評価も受けている)

以下の記述においては原則としてケインズ経済学=アメリカ・ケインジアンの体系を意味するものとする。
英語の上達秘伝!
学べる東京の専門学校
休日の安いショッピング散歩
賢い消費者金融の見つけ方
おみくじ道のプロローグ
人材派遣の登録の仕方!
就職・転職ガイドの教え
美容サプリ情報案内
男道の格闘技、武術を学ぶ
全国制覇お笑い芸人誕生
特報・働くお父さんの求人情報
歴史の足跡魅力を紹介
アウトドアアイテムの紹介
旅行、観光は私におまかせ!
大冒険気になる仕事をチェック!
吉日の海外ツアー大作戦
めだかの探偵物語
ガイアの手術体験記
マザー離婚のタイミング
安い部屋探し
雑貨の世界紀行
家族でオートキャンプ

しかし1970年代に入って米国など先進工業国がスタグフレーションに苦しむようになるとケインズ批判が起こる。新古典派が復権して、新しい古典派という考えが注目されるようになる。

新しい古典派が台頭する別の要因の1つは、ケインズ経済学が方法論的な問題を抱えていると考えられていたことに求められる。ケインズ経済学の大きな特徴は総消費のようなマクロ経済変数が、ミクロ経済学で想定されている各経済主体の最適化行動とは全く異なるメカニズムで決定されるという点にある。こうした各経済主体の合理的な行動と総体としてのマクロ経済変数の決定との乖離は、マクロ経済モデルの現実への適合性を考える上で問題となる可能性がある。例えばケインズ経済学は本来は経済環境の変化などで内生的に決定される変数を、外生的に与えられモデルではその説明が出来ないパラメーターとして扱ってしまいがちであった。以下に例を示す。

2009年06月13日

超空洞(ちょうくうどう、void)は、現在観測されている

超空洞(ちょうくうどう、void)は、現在観測されている宇宙の大規模構造において、泡沫状に分布する超銀河団領域がちょうど膜のようなかたちとなって包含している、何も存在しない空間を指す。そのまま英語読みでボイドまたはヴォイドとも言う。

銀河団の分布を石鹸泡に例えれば、ボイドは泡の中の空洞にあたる。

人間の住む太陽系のある銀河系は、30個ほどの銀河とともに一つの集団を形作っている。これを「銀河団」と言う。さらに大局的に一億光年単位というスケールから眺めた時、この銀河団もより大きな銀河団の一部に過ぎず、「超銀河団」と呼ばれる銀河の大集団を形成している。これをさらに外延すれば、超銀河団もより大きな集団の一部となっているということも考えられるが、実際には、この宇宙は銀河が均質に分布しているわけではない。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

1980年代に入って、天文学者の観測により、数億光年の彼方には約2億光年にわたって銀河がまったく観測されない空っぽの空洞が存在することが明らかになった。その後、同じような空洞が他にも幾つか発見されて、こうした銀河の存在しない超巨大空間は「超空洞」と呼ばれるようになった。さらに研究が重ねられ、銀河系の集合した超銀河団は、この超空洞を取り巻くように膜状に連なり、ちょうど石鹸を泡立てた時のように幾重にも泡が積み重なって、宇宙の大規模構造を構成していることが分かった。

現在観測されている限り、宇宙の果てまでこの泡状の構造が連なっており、直径数億光年の泡の表面には銀河がひしめいているのである。

2009年06月08日

座法(ざほう、もとの用字は坐法)とは

座法(ざほう、もとの用字は坐法)とは、ヒトが椅子等の家具なしに床など敷物の上に座る際の足の組み方である。

敷物に座る文化は各国にあるが、日本では正座、胡坐(あぐら)といわれる座り方が現代でも日常的に行われている。
損害保険 整体 菜園 教材 乗物 資格 旅行 ダイエット 特産物 育毛 開業 ペット 在宅 運送 健康 贈答品 抜け毛 墓地 検定 九州沖縄 専門学校 スポット 美容 信託 美容室 興信所 癒し 抜け毛 お祝い 介護 ゲーム スクール 抜け毛 事務用品 学習 ホテル プリスクール 水族館 矯正 キャッシング 興信所 クレジット 調査 抜け毛 家電 介護 アクセサリー ステイ 交通地図 外国語

江戸時代の日本、トルコ、イースター島のモアイ像などにみられる。なお日本では江戸幕府により小笠原流礼法を武家の礼法に採用され茶道などで広まったという説があり、また一方では、この座り方自体はもっと古くから庶民に浸透していたという説がある。富山県では「おちんちんかく」という。正座はもともとは中国式であり、その例は漢の時代の墓の副葬品の俑にみられる。
跪座(きざ)
つま先を立てた正座。神道、弓道の控えの姿勢にみられる。
片膝立
日本、韓国など。通常は後ろ足のつま先は立てないが、能の控えの姿勢や柔術の一部流派など日本武術では後ろ足のつま先を立てるものもある。
胡坐(あぐら)
日本他。日本では安座といった。
半安座
胡座の足を組まない座り方。古い居合術の形に大座という名称でみられる。
結跏趺坐(けっかふざ)

仏教、ヨーガのパドマ・アーサナ(蓮華座)など。
蹲踞(そんきょ)
詳細は蹲踞を参照

相撲、剣道などの競技前に行うつま先で体を支え足を開きかかとにお尻を乗せ背筋を伸ばす座り方。
体育座り
詳細は体育座りを参照

小学校など日本の学校教育上の座り。三角すわりとも。
女座り
日本女性などが行なう正座のずれた形の座り。
あひる座り(ぺったんこ座り、ぺたんこ座り、女の子座り、ぺたん座り、おばあちゃん座り、鳶座り、割座)
正座の状態で両足を外にして、お尻を地面にぺたんと付けたままの座り方。M字のような形または、両脚をもっと広げてT字のような形に座る場合もある。主に、女性に特徴的な座り方であるが、成人男性でも出来る人もいる。体の柔らかい子どもがすることが多いが、成長過程で股関節に悪影響を与え、四角い骨盤となるおそれがある。そのため、女性の場合、子宮に影響を与え、あまり良くない座り方だと言われている。
その他

しゃがむ姿勢:かかとを地面につけたまましゃがむ姿勢は、和式便器での排便、排尿の姿勢と同じなので日本では俗にうんこ座りとも言われる。

2009年04月25日

妖精の煙突

"妖精の煙突"と呼ばれる岩の形成物の間に位置するギョレメ は、トルコの歴史地区カッパドキアの町である。それはアナトリア中央の ネヴシェヒル県 (Nevşehir)にある。ギョレメ国立公園(トルコ語でGöreme Milli Parklar)は、1985年にユネスコの世界遺産リストに加えられた。

この地域への初期の移住は キリスト教が伝播した頃の古代ローマ後期にさかのぼる。史跡の中にはギョレメのオルタハネ、ドゥムス・カディル、ユフス・コックとベジルハネの教会、岩から彫られた家々と縦抗がある。 地下45メートルまでには、広範囲の地下都市が近年発見されている。

カッパドキアには「必見」の場所がたくさんある。たとえば"妖精の煙突"と呼ばれる多様な奇岩、ギョレメ谷、ギョレメ国立公園、岩窟教会、カイマクル・デリンクユあるいはオズコナックの地下都市、ゼルヴェ谷、アヴァノスとその陶器、ウチヒサルの岩の要塞、ウフララ渓谷とソアンル。

リビエラ快適生活ナビ
エキスようこそ健康ネット
ティアラショップチャンネルサーチ
ビジネススクール・セミナー関連教育学び総合
サーカス 全国地域情報ナビ
五番街コスメチック倶楽部リンクサイト
チャンピオン 経済検索エンジン
トロアヴアレー生活雑貨情報
マット健康・医療COM
トパーズプライムショッピングサーチ

サイクリング、ウォーキング、乗馬のツアーもこの地域では人気となりつつある。2005年の公式観光者数は、年に850,000人の外国人旅行者、そして約100万人のトルコ人旅行者が訪れると示している。

2009年04月07日

ケルト音楽

ケルト音楽とは、レコード会社、CDショップおよび音楽雑誌などによって西ヨーロッパのケルト人達の民族音楽から発展し、継承されていった幅広い音楽のジャンルを総称する際に作られた言葉である。厳密には、現在ケルト音楽と言われているものが文化的にケルト民族に起源を発するかどうかは定かではなく、また実際にケルト音楽という実体がある訳ではないが、広く用いられている言葉であり、口承された伝統音楽からポピュラー音楽にかけて、幅広い音楽を指すとされる。後者の場合は、それこそケルト人の民族文化の表層すらなぞっていない物も存在する。

ケルト音楽は、地域的にはブリテン諸島(アイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォルなどを含む)から、フランスのブルターニュ、スペインのガリシア地方、北東ポルトガル、そしてカナダ(特にケープ・ブレトン島)やアメリカなどに住む、民族的にケルト人と区分される区域からの移住者が行う音楽まで広がりを見せる。そして通常ケルト音楽といえばスコットランド音楽やアイルランド音楽を連想する事も多いが、これらはケルト音楽とカテゴライズされる以前に既に単体でジャンルとして成立している。そのため、時には自らを「ケルト」と称される事に対して何か商業的な理由がない限り強い抵抗を示すミュージシャンやアーティストもこの2ジャンルの中には存在する。

ケルト音楽の代表的なミュージシャン・アーティスト [編集]
ドーナル・ラニー
アルタン
チーフタンズ
エンヤ
ルアル・ナ・ルブレ
ロリーナ・マッケニット

リティ ハーフタイ ラサSEO ナビみさわ プローブ いきな オストミー ゼロワン フェイ ユータ メイス ドッグレ オール のんき フィジー ソニア ジューサ トハギ コート ナーグプ ちょくん ロイヤ フラック カスタマー ポンチ 影ふみ ニップル ハンブル 時代屋 ドッキン オンフ タウン むほん ブロード ジルサン パレタイ セリュ すぺあ トレッド ディベー ディーズ フラワー レジャ フォーマ シランレン メゾン お手玉 デモクラシ 竹てっぽ ダボス

2009年03月23日

私鉄買収線

買収された私鉄は計14社、国有鉄道線としての路線数は計12線となる。各私鉄および各線を継承した路線の項も参照のこと。

仙北軽便線 [編集]
旧社名:仙北軽便鉄道
区間:小牛田 - 石巻間
買収:1919年4月1日
改軌:1920年5月23日
私鉄買収線の最初の事例である。鉄道敷設法に規定されていた石巻 - 小牛田 - 新庄間の予定線との重複から買収された。本来この区間は着工が決定されていなかったが、石巻港を拠点とする仙北軽便鉄道の好況を見て着工を決定し、買収に至った。

改軌は私鉄買収由来の特殊狭軌線の中でも特に早く、1年後の1920年5月23日には完了している。現在の石巻線の一部に相当する。
ワンド エリア ショール 二十世紀 スタス テーブ アニマロジ マクロレ オイスタ ライスワン キック フィー カウツギ バンダナ ディージ オクラ テランセラ タヒボ リーフ 夜汽車 カウチ ふたり星 ユリ最適 時空ド ミリタリー サギソウ トライプ ドーベ メリル プレタク チューブ カムカエ ラッター ソーサー ラクト バック 朝日が昇る ジプサム フェロモア ション デュアル ウォマ フラッシュ ルコア サイホン シンク タイガ デキャンタ ディスコン テーピング

魚沼軽便線 → 魚沼線 [編集]
旧社名:魚沼鉄道
区間:新来迎寺 - 小千谷間
買収:1922年6月15日
改軌:行われず休止(公式には1954年8月1日)
当線は上越北線(現在の上越線)が並行して開業したために青息吐息の状態で、1921年には補償を申請して廃止届を出すところまで行っていた路線が、一転して国有化されるという特異な経緯をたどったものである。表向きは鉄道敷設法の別表に規定されていた来迎寺 - 小千谷 - 岩沢間の予定線と重なることと、沿線に軍の駐屯地があったことを根拠に買収されており、他の路線と同じような予定線重複にともなう買収、また一種の補償買収にも見えるものであった。しかし実際のところ当線の買収は地元有力者や会社が当時の与党・立憲政友会に働きかけたことによって起こったもので、買収の決定も野党の憲政会による激しい反対を立憲政友会が無理矢理押し切る形で行われるなど、特定の政党が単独で計画し力にものをいわせて強行するという、極めて政治色の強いものであった。

このような経緯があったため路線の経営状態そのものは度外視であり、国有化後も並行線の問題が依然重くのしかかって当線の経営を圧迫し続けた。さらには貨物需要を担っていた発電所工事の中止や、第一次大戦後の軍縮によるあおりで軍の駐屯地が閉鎖されたことで存在意義が低下。改軌されずに塩漬け状態となり、ついには不要不急線に指定されて、1944年10月15日に全線休止されてしまった。

戦後、1954年にほぼ同じ経路で1067mm軌間の魚沼線が建設され、公式には特殊狭軌線が改軌されて復活した後継路線とされている。しかし実際には既に線路が消滅していた旧線の路盤を流用しながら新線を改めて敷設しており、実質的には「旧線を改軌して新線にした」というよりも「旧線を廃止して新線を一から建設し直した」という方が当たっている。なお、再建の際に来迎寺・西小千谷周辺は大きくルートが変更されており、この部分は完全な新設線ということになる。その再建された魚沼線も1984年に廃止されたため、いずれにせよ路線は現存しない。

なおこの魚沼鉄道買収まで、国有鉄道線としての路線名は「○○軽便線」とされていたが、1922年9月2日に「軽便線」の呼称が廃止され、特殊狭軌線も他の路線と同じく単に「○○線」と命名されるようになった。当線の最初の線名である「魚沼軽便線」が、途中で「魚沼線」と改称されたのもそのためである。

久留里線 [編集]
旧社名:千葉県営鉄道久留里線
区間:木更津 - 久留里間
買収:1923年9月24日
改軌:1932年8月20日
千葉県営鉄道の一路線で、当初は買収対象ではなかった。しかし大正末期に木更津を起点に内房と外房を結ぶ鉄道構想が起こり、これが鉄道敷設法に規定されていた木更津 - 久留里 - 大多喜 - 大原間の予定線と重なって、互いの利害が一致したことから買収された。この際、鉄道省は無償譲渡を条件に路線延長を約束しており、この取引から無償で譲渡されることになった。なお買収日が関東大震災の直後であり、実際に甚大な被害を受けていたことから、「震災被害の復旧費用の関係から無償で譲渡された」とする説があるが、上述の通り実際には無償譲渡は政治取引から出たことであって震災とは無関係であり、全くの俗説に過ぎない。

かくして政府と掛け合ってまで買収にこぎつけたものの、実際には鉄道建設予算の削減と政治的な事情から、約束は反故にされて長く改軌されないままとなり、県議会の抗議も門前払いの状態が続いた。何とか改軌にこぎ着けたのは、昭和に入った1932年8月20日のことであった。

路線名は改軌工事の際に一時「木原西線」とされたが、結局元の線名に戻り、現在の久留里線として継承されている。

太多線 [編集]
旧社名:東濃鉄道
区間:新多治見 - 広見間
買収:1926年9月25日
改軌:1928年10月1日
この「東濃鉄道」は、かつて駄知線・笠原線を運営し、現在も自動車会社として現存する東濃鉄道とは全くの別会社である。鉄道敷設法に規定された多治見-岐阜間の予定線を建設中、完全に路線が並行したことから買収された。ただし、敷設法の規定が大雑把で経路が読めなかったため、当初から買収される可能性が大きい路線であった。

これまでの買収は全て全線買収であったが、東濃鉄道の場合は新多治見 - 広見間のみの買収で、その先の広見 - 御嵩間は買収されなかった。この区間はのちに新設会社の東美鉄道に譲渡され、さらに名古屋鉄道に合併されて名鉄広見線の一部となった。なお特殊狭軌線時代には東濃鉄道時代のままに直通運転が行われていた。

改軌は太多線がその名のとおり、多治見 - 美濃太田間を全通させた1928年10月1日のことであった。現在も太多線の一部として現役である。

日高線 [編集]
旧社名:苫小牧軽便鉄道・日高拓殖鉄道
区間:苫小牧 - 佐瑠太 - 静内間
買収:1927年8月1日
改軌:1931年11月10日
苫小牧 - 佐瑠太間が苫小牧軽便鉄道、佐瑠太 - 静内間が日高拓殖鉄道に当たる。別会社であるが実質的に一つながりの路線であり、直通運転も行っていた。北海道鉄道敷設法にあった苫小牧 - 鵡川 - 浦河 - 広尾 - 帯広間の予定線と重複したため、両社同時に買収された。なお、日高拓殖鉄道には浦河延長の計画があったが、この買収が現実化したため中止して国にまかせることにした経緯がある。

改軌は苫小牧側が優先され、苫小牧 - 佐瑠太間が1929年11月25日に早くも改軌完了、佐瑠太 - 静内間の改軌は1931年11月10日まで持ち越された。現在も日高本線の一部として現役である。

なお、佐瑠太駅(現在の富川駅)から分岐していた沙流鉄道は自社車両を一切所有せず、全て苫小牧軽便鉄道の車両を用いていた。このため苫小牧軽便鉄道の国有化後は、私鉄ながら全て国有鉄道の車両が使用されているという変わった営業形態になった。日高線の改軌後は、特殊狭軌線時代の車両を譲り受けて自社車両としている。

2009年03月08日

七年戦争/フレンチ・インディアン戦争

マリア・テレジアはシュレージエン奪回を企図して外交革命をおこない、宿敵であったフランスと防御同盟(1756年)を結んでフリードリヒ2世のプロイセンに対抗したが、結果はシュレージエンのプロイセン領有を再確認にするにとどまった。北米大陸では、これより先に戦闘が始まっており、本国の支援を受けたイギリスの北米13植民地軍がインディアンと連合したフランス勢力に勝利した。1763年のパリ条約では、カナダおよびミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスへ、フロリダがスペインからイギリスへ割譲された。なお、ミシシッピ川以西のルイジアナはフランスからスペインに割譲されている。ここに、フランスは北米植民地のすべてを失うこととなり、イギリスの大西洋での覇権が確立した。インドでも、フランスのインド提督デュプレクス召還後にイギリス東インド会社書記ロバート・クライブ率いる英軍が、フランス・ベンガル土侯連合軍を撃破してイギリスのインドでの覇権が確立した。アフリカ大陸西部のセネガルもフランスからイギリスに割譲された。
マッチョ シスター シャンソン ミズバシ ストック オタワ ビピンセット モカシ クアヘン ランプ ジョー たけのこ ハットピン スコー どひ ノーサンキュ ケース ブイカッタ バウハ テイクオフ ジェム デグレー バラモン ライト コモデ ダイナモ いえごん ミドル 陣の風 タブロイド キシレン オー ラテン レディ ムートン クオンツ パペット ユーレカ ホーム ターフビ ジュゴン オフショ パリジャ オフラ ブランド 学園祭 プロッター チャマ ハンドマッ バール

パリ条約(1763年)後の大西洋世界
ジブラルタルとメノルカ島
ユトレヒト条約(1713年)で地中海航行の中継地としてイギリスがスペインから獲得→メノルカ島は、アメリカ独立戦争後(1783年)にスペインに返還。ジブラルタルは現在もイギリス領。
セネガル
パリ条約(1763年)で奴隷の供給地としてイギリスがフランスより獲得→アメリカ独立戦争後にフランスに返還(1783年)
ルイジアナとフロリダ
パリ条約(1763年)でイギリスはフランスから東西ルイジアナを獲得したが、穀物の輸出地として必要なスペイン領フロリダと西ルイジアナを交換→フロリダは、アメリカ独立戦争後にスペインに返還(1783年)・西ルイジアナは、1800年ナポレオンによりフランスが奪回→アメリカ合衆国が西ルイジアナをフランスから(1803年)、フロリダをスペインから(1819年)それぞれ購入

プラッシーの戦い(1757年)後のアジア
東インド会社は設立当初から1640年頃までは貿易がおもな業務であったが、やがて植民、さらに武力による領土獲得を主とするようになり、1680年代になると徴兵権、士官任命権、土侯に対する宣戦・交戦権を獲得した。しかし、プラッシーの戦いののちは、明らかにインド人に対する統治機関へと変貌を遂げた。

1764年のブクサールの戦いでベンガル地方を制圧し、1765年のアラハバード条約によってイギリス東インド会社がベンガル・ビハール・オリッサの地租徴収権を獲得した。徴税権を与えたムガル皇帝は、その代償としてイギリス政府から年金を受けることになった。1774年には初代ベンガル総督としてヘースティングスを赴任させて首市をカルカッタに置いた。さらに、4次にわたるマイソール戦争(1767年?1799年)は南インドの、3次にわたるマラータ戦争(1775年 - 1818年)は中部インドデカン高原の植民地化を推し進めるものであった。

フランスはインドからの撤退を余儀なくされることとなり、アジアではインドシナへの転進を図る。1775年フランス人宣教師ピニョーがコーチシナに上陸、1802年にはピニョーの援助により阮福映がユエを都として阮朝越南国を建国した。

七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)が後世に与えた影響
17世紀の三十年戦争において樹立された(勢力均衡機構としての)「ヴェストファーレン体制」は18世紀中葉には完全に瓦解する(ただし、主権国家体制としてのそれは姿を変えながらも今日まで続いている)。
フランスは北米植民地とインドでの拠点を失い、イギリスの覇権が確立する(第一次大英帝国の成立)。
英領アメリカ13植民地はフレンチ・インディアン戦争後の国王宣言線に激しく反発し、さらに、この戦争の戦費を植民地人に負担させるため、英本国政府は13植民地に対し、砂糖法・印紙法などの諸税を課そうとした。これがアメリカ独立革命の原因となった。北米大陸におけるフランス人勢力が一掃されたことによって、かえって英領植民地は本国からの安全保障を必要としなくなってしまい、これがアメリカ独立を促した側面がある。
ルイ15世・ルイ16世統治下のフランスでは、度重なる外征の戦費と王家の豪奢な生活などによって財政事情がきわめて悪化した。逼迫した財政状況を打開するため新税を導入しようとして三部会を招集したことがフランス革命勃発のきっかけとなった。

アメリカ独立戦争
1777年のサラトガの戦いに13植民地が勝利すると、イギリスとの植民地戦争に敗れたフランス・スペイン・オランダが相次いでイギリスに宣戦布告し、独立側に立って参戦した。さらにロシアのエカチェリーナ2世の提唱する武装中立同盟が、ロシア・プロイセン・ポルトガル・スウェーデン・デンマークによって結成され、イギリスは国際的に孤立していき、最終的には1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立を承認した。

フランス革命戦争?ナポレオン戦争
ルイ16世の処刑をきっかけに第1回(1793年 - 1797年)、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際の第2回(1799年 - 1802年)、ナポレオンの皇帝即位の際の第3回(1805年)、ナポレオンのロシア遠征失敗後の第4回(1813年 - 1814年)の4度にわたって対仏大同盟[2]が結成され、そのいずれにもイギリスが加わっている。なお、第1回大同盟はイギリス首相ピットの提唱によるものである。ヨーロッパ大陸制圧後のナポレオンはトラファルガー海戦の敗北ののち、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出してイギリス封じ込めを企図するが、成功しなかった。最終的には、ライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンが退位、ウィーン会議が開かれ、ブルボン朝が復活する。途中ナポレオンの百日天下もあったが、再開されたウィーン会議では、フランス外相タレーランが「正統主義」を主張、ヨーロッパの秩序はフランス革命以前の状態に復することとなった。

フランス革命で奴隷制度は理念上廃止された(1794年)。1807年にはイギリス・アメリカで奴隷貿易が廃止されたが、密貿易は依然続いていた(イギリス議会の奴隷制度廃止決議は1833年)。
ナポレオン戦争はまた、イギリスの覇権をより強固なものにする契機となった。オランダが革命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスはケープ植民地やセイロン島、東インド(インドネシア)などオランダ植民地を次々に占領した。イギリス船はオランダ商館が置かれた長崎にまで来航し、フェートン号事件を起こしている(1808年)。ウィーン議定書によって東インドはオランダに返還されたが、セイロンやケープ植民地は返還されず、イギリスは1815年セイロン島内陸部のカンディー王国を征服してセイロン植民地を成立させた。

結果
イギリスの勝利
この一連の抗争では、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)によってイギリスの優位が明らかになった。大英帝国の成立である(アメリカ独立以前を「第一次帝国」または「旧帝国」、独立以後を「第二次帝国」または「新帝国」と呼ぶことがある)。一方のフランスは北米植民地とインドでの拠点をともに失い、国内では絶対王政のゆきづまりが明らかとなって、フランス革命以後パリ・コミューンの終結に至るまで政治的激動の時代が続いた。

なぜイギリスが勝利したか
議会の承認により税収のほとんどを軍事費に投入できた(フランスは国王の浪費も財政に影響した)ため
議会が保証するイギリス国債の信用が高く、臨時の資金調達能力もすぐれていたため
アンシャン・レジーム下のフランスでは徴税権をもつ貴族が多く、国庫収入が少なかったため
すなわち、イギリスの戦費調達能力がフランスのそれを大きく上回っていたと見なすことができる。加えて、フランスがユトレヒト条約などにみられるように王位・王権に対する執着が強く、冷静に国益を見据えた外交政策を持たなかった点も指摘できる(ただしこれには異論もある)。

2009年02月19日

ユニウス戦役(仮称)(C.E.73-74)

ブレイク・ザ・ワールド、フォックスノット・ノベンバーに端を発するプラントと地球連合軍ロゴス派による戦争。
ヤキン・ドゥーエ戦役のようにナチュラル陣営とコーディネイター陣営による総力戦とはならなかったが、大量破壊兵器が投入され、地球・プラント共に前大戦を超える被害を出した。
アマウ クチュール カートゥ ヌクレア ロデックス シフォン サーチ気球 ぎおん ミルキー バルコニー シェア クロモジ ジアス ゲードル じょうそう ドキュメ サクラソウ ハーフ デニム フォトジ ちとせ モンター ローブ レモン パラオ キッチュ マンノ ソテツ 江戸一 フェデ バンデージ スムーズ テレオ ドット ヤマブ チューニン オーダー バックミラ ニョリータ ネベ幸 ボール ニビル ギアシフト がかい あかぼり ビューロ ビロウ バンカ ユーラトム シーディー

ザフトG兵器強奪事件(仮称)
C.E.73年10月2日、新造艦ミネルバの進水式を目前に控えたプラントの軍事工廠「アーモリーワン」に於いて、3機のセカンドステージシリーズMS(カオス、ガイア、アビス)が地球連合軍第81独立機動軍ファントムペインによって強奪された事件(この際、開発の遅れていたセイバーは強奪を免れた。セイバーは後にアスラン・ザラの搭乗機としてミネルバに配備される)。

この時、オーブ連合首長国代表カガリ・ユラ・アスハ、アスラン・ザラ(アレックス・ディノ)は、ザフトが亡命オーブ人技術者を兵器開発に登用している事に抗議すべく、ミネルバの進水式に出席するギルバート・デュランダル最高評議会議長を極秘に訪問していたため、戦闘に巻き込まれることになる。

ブレイク・ザ・ワールド(ユニウスセブン落下テロ事件)
C.E.73年10月3日、100年単位で安定軌道にあると言われていたユニウスセブンが安定軌道を外れ、地球に向かって動き出した。これは現在のプラント評議会に不満を持ち戦争継続を訴えるザフト脱走兵(テロリスト)が、地球に住むナチュラルを殲滅する為に行った事である。

これに気付いたプラントはユニウスセブンを破砕する為、ザフトのジュール隊とミネルバをユニウスセブンに派遣した。しかし破砕を阻止する為にユニウスセブンに潜んでいたテロリスト達の妨害を受け、ユニウスセブンの破砕には成功したものの破片の落下までは防ぎ切れず、地球各地(特に赤道付近)では津波が起きる等大きな被害を出す事となった。国際緊急事態管理機構は、地球全体に非常事態を宣言し、同時に地球連合軍及び各国の全軍に、災害出動命令を発令した。

後日、ユニウスセブンでの戦闘(ザフトMSによる破砕作業の妨害)の映像が公表され、プラントもこれを大筋で事実と認めた為、地球の反コーディネイター感情が再発、さらにコーディネイターによる無差別テロが多発し、後に起こる戦争の火種となった。秘密結社ロゴスのメンバー兼ブルーコスモス盟主ロード・ジブリールは事件を「好機」と歓迎し傍観していた。これにより彼は地球世論をプラント攻撃へ盛り上げることに一時的に成功する。

尚、実行犯であるテロリスト達は全員がユニウスセブンで死亡したものの、破砕作業妨害の為に搭乗したジン・ハイマニューバ2型やユニウスセブンを動かす為に用いたフレアモーターなど、テロリスト達が大規模な装備を充分な数保有していた事からプラントにも彼らの協力者がいると見られ、ユニウスセブン落下後も調査が続けられている(ギルバート・デュランダルはテロリストが行動をおこすことを知っており、支援していた)。

また、プラント政府側は事件後の放送にて、テロリスト達の使用するジンが特殊な斬機刀を所有していた事から、斬機刀の製造と運用に長けているジャンク屋のロウ・ギュールがこのテロリスト達に支援をしていたと表明(これはロウの排除をもくろむ「一族」の陰謀によるものであった。ロウがプラントのレアメタルを拾得していたこともこの陰謀にプラスに働いた)。放送の内容を真に受けた連合軍によって、ジャンク屋組合本部であるジェネシスαが襲撃を受け、壊滅的な危機を迎える。

「世界安全保障条約」締結
世界安全保障条約は、国家同士が相互に集団的自衛の義務を担う条約であり、第二次ヤキン・ドゥーエ攻防戦後に起こったザフト脱走兵によるユニウスセブン落下テロ事件を契機に、プラントを軍事的脅威とみなす機運が地球各地で再び高まり、大西洋連邦の呼びかけにより、地球連合加盟国及び地球に国土を持つ全ての国家に加入を要請し、応じた国家間において締結された。 反ロゴス暴動以降、この条約がどうなったかは不明。

オーブは、代表首長カガリ・ユラ・アスハの承認により正式に世界安全保障条約加盟国となる。条約締結直後にカガリがキラ・ヤマトのフリーダムによって、アークエンジェルに連れ去られた事により、ロゴスの支援勢力であるセイラン家が政治権力を掌握し、クレタ沖におけるザフトとの戦闘では地球連合軍と共同作戦を展開した。

ジェネシスα暴走事件
ジャンク屋組合の本拠地であるジェネシスα(これは先の大戦末期にザフトがジェネシスの試作機として建造し、その後廃棄したもの。さらにその後ジャンク屋組合が回収・修復し、本拠地とした。)が地球連合の要塞衛星を狙撃した事件。この衛星は一般には非公開であったものの、連合はジャンク屋組合による敵対行為であるとみなし非難した。この事件はウイルスによる誤射が原因であったがその証明は困難で、連合側はこれを意図的な攻撃と判断した。この直後、連合はジェネシスαを襲撃した。ジャンク屋組合はジェネシスαを放棄し、アメノミハシラに避難した。

フォルタレザ市MSテロ(仮称)
ブレイク・ザ・ワールドの混乱及びその影響による異常豪雨に見舞われた南アメリカ合衆国旧ブラジル地区フォルタレザ市が、突如ザフト製MSジン1機によって襲撃された(通称:ジン・タイプインサージェント)。攻撃目標は建造物や市民へ無差別であり、甚大な被害が出た。現地の地球連合軍攻撃ヘリコプターの対戦車ミサイルでバックパックを失った後、リニアガン・タンクの近距離連続砲撃により、ジンは沈黙した。

コックピットにいたのは年端のゆかぬコーディネイターの子供であったが、爆撃の高熱で既に死亡していた。15にも満たない少年少女が、何の訓練もなくMSを操縦できるのは有り得ない話であり、在地球コーディネイターのテロ組織(ザフト脱走兵)の一員としての特殊訓練を受けていたと見られている。

この事件と平行して、オーストラリア南部でも類似した戦闘が発生している他、パトリック・ザラを信奉するコーディネイターによる民間ナチュラルへの無差別テロが散発的に起こっている[3]。

キルギスプラント襲撃事件(仮称)
フォルタレザ市テロの翌日、ブレイク・ザ・ワールドの混乱が未だ収まらぬ中、ユーラシア連邦東部キルギスにある、新型駆動コンピュータを開発中である地球軍研究施設がジン、バクゥ、ガズウートの2個小隊規模からなる、おそらくザフト脱走兵が操縦していたと思われるザフト製モビルスーツ及び制式自動小銃、冬季オーバーコート軍服装備の武装集団によって襲撃された。一報を受けた地球軍本部は直ちに第81独立機動群ファントムペイ所属部隊の一つであるストライクノワール、ブルデュエル、ヴェルデバスターの3機で構成された1個小隊を出撃させ、これを殲滅した。

天空の宣言
ロンド・ミナ・サハクが地球を含む全宇宙にむけて発信した声明。「人類は他者の理想を妨げない限り己の信念に従うべきだ」という考えであり、いかなる組織・国家であろうとも他者に主義・主張を押し付けてはならないと説いた。ミナはこの「宣言」に従うことを人々に強制しない一方、宣言に賛同した者には無償の援助をすると表明するしたたかさを見せていた。なおモーガン・シュバリエ等はこの宣言に賛同していない。

宣言後の南アメリカ合衆国やユーラシア西側地域といった連合にもプラントにも属さぬ地域では、これらの地域を援護するロンド・ミナ・サハクの“地域遊説”が度々見られるようになった。

連合・プラント両政府はこの宣言を悪質なものと市民達に表明し、オーブおよびスカンジナビア王国は黙認の態度を取った。

なおこの宣言の直後地球連合艦隊がアメノミハシラに接近したが交戦は確認されていない。

フォックスノット・ノベンバー
地球連合側は、「ユニウスセブン落下テロ事件に関与したテロリストは全員死亡した」としたプラント側の報告を一度は受け入れたものの、それを事実上撤回し、プラントが「戦闘中に死亡した」と説明したテロリストの引渡しや武装解除、プラント最高評議会への監査員の派遣の容認をプラント側に要求する共同声明を発表したが、プラントは拒否。

更に、同事件以降の地球の反プラント世論と、コーディネーターによる無差別テロの多発、ブルーコスモスなどの各勢力の地下工作活動により地球連合はプラントに宣戦布告し、同時にプラント制圧作戦を発動した。

大西洋連邦所属の月面アルザッヘル基地の部隊を主力とした地球連合艦隊とそれを迎え撃つ宇宙空母「ゴンドワナ」を旗艦とするザフト主力艦隊がプラントのあるL5宙域で激突。戦局はほぼ一進一退の五分であったが、地球連合艦隊は主力部隊を囮としてザフト主力部隊を拘束、極軌道上の暗礁宙域に宇宙空母「ネタニヤフ」を旗艦とした奇襲攻撃艦隊「クルセイダーズ」を秘匿し、同艦隊が多数保有する核ミサイルによりプラント群を攻撃し、プラントを一気に殲滅せんとしていた。

作戦はほぼ地球連合艦隊の思惑通り進行し、クルセイダーズはプラント群の直上より核ミサイル搭載の地球連合最新鋭MSウィンダムを多数射出、直後長距離強行偵察複座型ジンに発見されるが、すでに迎撃が困難な所まで展開しており、プラントの命運は尽きたかに思えたが、ザフトは切り札ニュートロンスタンピーダーを展開し核ミサイルは(安全装置が解除されていない戦艦に格納されている分も含め)全て自爆、クルセイダーズの戦艦やMSは全て消滅し、プラントへの核攻撃は未然に防がれた。

これにより作戦は失敗、地球連合艦隊は悪戯な消耗を避けるため月軌道へ撤退、更にニュートロンスタンピーダーが核攻撃への抑止となり、以降宇宙では月とL5宙域を挟み地球連合艦隊とザフト艦隊が睨み合いに終始し、小競り合いを繰り返す事になる。
また、作戦成功と同時にカーペンタリアやジブラルタルに攻め込む手筈だった地上軍は踏鞴を踏む事になる。

この一戦を重く見たギルバート・デュランダルプラント最高評議会議長は、プラントの安全保障のため、積極的自衛権の行使を名分に地上への降下作戦「オペレーション・スピア・オブ・トワイライト」を発動、再び地球圏全土を巻き込む大戦が始まる。

ボナパルト追撃戦(仮称)
ファントムペインを中心とした地球連合軍は西ユーラシア地域の反連合勢力の掃討と、ファントムペイン本部のある中央アジア地域へ侵攻を開始した陸上戦艦を中心に編成されたザフトの大部隊に対抗する名目でデストロイを搭載したボナパルトを西ユーラシア地域へ派遣。

その不穏な動きを察知したザフトはケルベロスバクゥハウンドを中心とした部隊で攻撃、ストライクノワールらを中心としたファントムペインと交戦した。この戦いでザフトはブルデュエルを撃破するなどの戦果をあげたものの、攻撃部隊はほぼ全滅してしまい、連合軍の動きを止めることは出来ず、デストロイのシステムに最も適合した強化人間を有するロアノーク隊との合流を許してしまう。

西ユーラシア政変(仮称)
ギルバート・デュランダル プラント最高評議会議長が全世界へ向けて政見放送をしたのを発端に起こった政変。反連合感情の根強いザフト駐留下のユーラシア西部地域に対し、地球連合軍のデストロイを中核とする部隊が大規模攻撃を開始、三都市(映像からモスクワかワルシャワが含まれる模様)を壊滅させた後進軍したベルリンにザフトのMSと陸上戦艦からなる駐留部隊との交戦の末、ミネルバ隊のインパルスガンダムやアークエンジェルより発進したフリーダムガンダムによりデストロイは撃破されるもののベルリンは壊滅し多くの民間人が犠牲となった。この一戦の映像をプラント政府が編集の上放送した。更にブルーコスモスの支援母体であり戦争の影の暗躍者(とレッテルを貼った上で)「ロゴス」の存在と中心人物の詳細を暴露し、全世界の反ロゴス感情を煽った。

この放送が切っ掛けにより各地で民衆による武装蜂起が頻発し、ロゴスの幹部が所有する施設が襲撃され幹部の多くは逃げ延びるも、一部の逃げ遅れた者は死刑的に殺害された。また大西洋連邦においてもホワイトハウス周辺で大規模反戦デモが発生するなど状況は連合対ザフトから、ロゴス対反ロゴスへと急変する事になる。ロード・ジブリール以下生き残ったロゴス幹部とそれに従う勢力はロゴス本拠地のヘブンズベースへ逃げ延び、徹底抗戦を図った。

オペレーション・ラグナロク
プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルのロゴス討伐宣言に呼応した東アジア共和国を初めとした地球連合内の反ロゴス陣営とザフトによって構成された対ロゴス同盟軍が、ロゴスメンバー及びブルーコスモス派が立て篭もるヘブンズベースに武装解除と匿っているロゴスメンバーの引渡しを求めた作戦。

ロゴスメンバーがアイスランドにある地球連合軍最高司令部 ヘブンズベースに逃げ込んでいる事を知った対ロゴス同盟軍は、ザフトのジブラルタル基地に参集。そこからアイスランドに向け出発し、同島を艦艇で包囲。立て篭もるロゴス陣営に、ロゴスメンバーの引渡しとヘブンズベースの武装解除を含む要求、更に要求に応じられない場合は攻撃を行う旨を地球連合・プラント両陣営公式のものとして通告した。

これに対してロゴス陣営は沈黙を守り、密かに抗戦の準備を整えていたが、ブルーコスモス盟主ロード・ジブリールの指示により、通告への回答期限まで5時間を切ったところで突如戦端を開いた。ベルリン戦で戦果を挙げた5機のデストロイの量産型や対空掃討砲ニーベルングにより、当初戦局はロゴス陣営優位に進むが、ミネルバ隊のデスティニー、レジェンド、インパルスらの戦闘によりデストロイを失ったロゴス陣営の攻撃力は急激に低下した。また、体勢を立て直し、猛然と反撃してきた対ロゴス同盟軍の物量の前に兵力のほとんどを失い、戦意喪失。司令部に白旗を掲げ、全面的に降伏した。

だが降伏の直前、形勢不利と見たジブリールは他のロゴスメンバーを見捨て潜水艦で秘密裏に脱出を行い、オーブに向かって逃走しており、対ロゴス同盟軍は戦闘には勝利したが最大の目標であったジブリール逮捕には至らなかった。

オペレーション・フューリー
ヘブンズベースより逃亡したロード・ジブリールは、その後オーブに逃亡し、実質的な支配者セイラン家に匿われた。スパイからの情報を得たザフト・反ロゴス連合艦隊は、オーブ政府にジブリールの身柄引渡しを強く求めた。宰相で実質的なオーブの国家指導者であるウナト・エマ・セイランの息子ユウナ・ロマ・セイランはこの要求に対して、「そのような人物はオーブ国内に存在しない」という旨を回答する。しかし、あからさまな嘘は通用せず、プラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルの命令により作戦は発動された。

ザフトは海上からミネルバ、ボズゴロフ級10数隻、そしてその艦載MSからなる戦力を投入した。迎え撃つ形となったオーブ軍は、軍の最高指揮官に近い立場にあるユウナが侵攻を想定しておらず、軍全体で組織的な防戦へ移るのが遅れてしまい、ザフト優勢のまま戦闘は進む事になる。

しかし、戦闘の最中突如戦場に現れたオーブ代表首長カガリ・ユラ・アスハが復帰しオーブ軍の指揮系統を立て直すと共に、アークエンジェル、ストライクフリーダム、インフィニットジャスティス、ドムトルーパーが来援する。また、本作戦の目標たるジブリールは宇宙へ逃亡してしまい、旗艦セントヘレンズが撃沈され、指揮を引き継いだミネルバ艦長タリア・グラディスはこれ以上の戦闘が無意味と判断し、全隊を率いて公海上へと撤退した。ジブリールの身柄の確保の目的を果たせず、作戦は失敗に終わった。

この戦闘の際に地下シェルターに避難していたウナトは他の閣僚共々、地中から突入したジオグーンによる崩落により死亡した。拘束されたユウナも隙を見て一旦は脱走するが、撃墜されたグフイグナイテッドの下敷きになり死亡した。

D.S.S.Dトロヤステーション襲撃(仮称)
地球連合軍第81独立機動群ファントムペイン所属の戦艦「ナナバルク」を中心とした部隊によるD.S.S.Dトロヤステーションに対する襲撃事件。ロード・ジブリールの地球脱出に伴い、追いつめられた地球連合軍(ロゴス派)はD.S.S.Dで開発している機体スターゲイザーの強奪を目的とした作戦。

戦力的には圧倒的なはずのナナバルク側であったが、主力MSスローターダガー部隊がD.S.S.DのMSシビリアンアストレイ及びスターゲイザーに撃破される。最精鋭機ヴェルデバスターも撃破され、最後に残ったもう1機の主力であるストライクノワールも被弾し行動不能となり、パイロット共々行方不明になった。母艦であるナナバルクも撃沈され、作戦は失敗した。

ダイダロス、レクイエム攻防戦
月面ダイダロス基地に逃げ込んだロード・ジブリールは大量破壊兵器レクイエムで形勢逆転を図る。ジブリールはプラントの首都であるアプリリウス・ワンを狙ったが、最終中継点の廃棄コロニーがジュール隊らとの交戦の影響で射角がずれてヤヌアリウス・ワンからフォーの4基に直撃し、壊滅的な被害を与えた。また、その残骸がディゼンベルに飛来し、ディセンベル・セブンとエイトの2基、計6基が崩壊する大惨事となった。

これ以上の被害を出さないため、ザフトは第1中継地点「フォーレ」の制圧のためゴンドワナを主力とする月軌道艦隊が出撃する。地球連合軍は、ザフトの動きに呼応し大西洋連邦大統領ジョゼフ・コープランドが滞在するアルザッヘル基地からも第5・第8機動艦隊を出撃させた。一方、ジブリールの指揮下にあるダイダロス基地は、同基地に駐留する第3機動艦隊を「フォーレ」防衛のため出撃させた。これに対しギルバート・デュランダルはカーペンタリアから宇宙へ上がって来たミネルバに単身でダイダロス基地へ向いレクイエムの制圧を指示する。

デスティニー、レジェンドは、ザムザザー、ゲルズゲー、ユークリッドのMA群と多数のMS部隊からなる守備隊を撃破していく。デストロイも5機が投入されたが、接近戦での弱さを突かれ全てが撃破された。「フォーレ」宙域での戦闘はザフトの激しい攻勢で守備隊は劣勢になり、ジブリールはパワーチャージを諦めレクイエムの発射を指示するも姿勢位置をずらされたため、プラントへの攻撃は不可能となった。ジブリールは「フォーレ」宙域のザフトだけでもなぎ払おうと発射と同時に脱出を決意する。また、デスティニー、レジェンドの猛攻で基地の守備隊も壊滅し、そこに基地外縁部を廻ってレーダーの眼を掻い潜ったブラストインパルスが基地建設時の試掘坑から基地内に侵入し、レクイエムのコントロール・ブロックを破壊する。コントロール・ブロックを破壊され、敗北を判断したジブリールはガーティー・ルーでアルザッヘル基地へ逃亡を図ったが、レジェンドのドラグーンでブリッジを貫かれ死亡した。これをもって戦闘は終結し、ロゴスは名実共に消滅した。

その後、「フォーレ」守備隊と第3機動艦隊の残存部隊はザフト艦隊に拿捕された。レクイエムはザフトによって接収され、秘密裏に修復作業が行われた。

メサイア攻防戦
ギルバート・デュランダルが提案したデスティニー・プラン表明後に行われたレクイエムによるアルザッヘル基地攻撃を大義名分にオーブ、スカンジナビア王国は、ザフト内の旧クライン派と一部の地球連合軍艦隊と合流し、レクイエムの中継ステーション「ステーション・ワン」、レクイエム及び機動要塞メサイアに進行し繰り広げられた戦闘。 戦闘の結果、レクイエム及びメサイアは陥落(ザフトの部隊もほぼ壊滅)し、デュランダルが死亡したため、ザフトが停戦勧告を受諾した事により戦闘は終了した。 C.E.74年にオーブとプラントは停戦協定を締結。プラント最高評議会は戦後の再編のためラクス・クラインをプラント評議会へ招聘した

2009年02月03日

三河吉田藩(みかわよしだはん)

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。
キーワ マラガ エンドロ せきがく ゆずりは シリアス パンパ ミント 春紫苑 ヒッピ マスタ ビューロ シーア ネーム たこあし スミス ビリティ ニッパー パンチ メチエ マフラー ガビアル きがん デュープ ナップ キーポイ うぐい ラティーノ テキスト キミと僕 サイトリー バーミュ マティ たいこう トトス フォーク ジンキケロ バランス フラッペ ルネサ シンシティ メリット トーン ファントム ジャングル エレジー タンク タール 光夜宴 プルーフ

天正18年(1590年)の小田原征伐後は、時の関白の豊臣秀吉の家臣・池田輝政が吉田城主として入った。輝政は後に徳川家康の娘婿となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して岐阜城攻めで武功を挙げたことから、戦後に播磨姫路藩に移封された。

慶長6年(1601年)2月、武蔵八幡山藩から徳川氏譜代の重臣・竹谷松平家の松平家清が3万石で入ったことにより、三河吉田藩が徳川家臣として立藩する。

慶長8年(1603年)、徳川家康は京の後陽成帝より征夷大将軍の宣下を受け、正式に徳川幕府が発足する。三河吉田藩も正式に幕藩体制下の藩となる。

慶長15年(1610年)12月21日に家清が死去すると、子の松平忠清が第2代藩主となるが、忠清は慶長17年(1612年)4月20日に死去し、嗣子が無かったために断絶・改易に処された。

直後の11月12日、三河深溝藩から松平忠利が入る。しかし第2代藩主・松平忠房時代の寛永9年(1632年)8月11日に三河刈谷藩に移封。入れ替わる形で水野忠清が入るが、寛永19年(1642年)7月28日に信濃松本藩に移封される。

駿河田中藩より水野忠善が入るが、正保2年(1645年)7月14日に三河岡崎藩に移封。

豊後杵築藩から小笠原忠知が入る。第2代藩主・小笠原長矩は寛文3年(1663年)、弟の小笠原長定、小笠原長秋に3000石、2000石を分与したため、吉田藩は4万石となる。第4代藩主・小笠原長重時代の元禄10年(1697年)4月19日に武蔵岩槻藩に移封される。

直後の6月10日、丹波亀山藩から久世重之が入る。新居関所を管理することになる。しかし重之が宝永2年(1705年)9月に若年寄に就任したことを契機に、10月には下総関宿藩に移封となる。入れ替わる形で牧野成春が入るが、第2代藩主・牧野成央が幼少で第2代藩主となったことから、江戸幕府では三河の要衝を任せておけぬとして、正徳2年(1712年)7月12日に日向延岡藩に移封された。

下総古河藩より、松平信祝が7万石で入るが、享保14年(1729年)2月2日に信祝が大坂城代に任じられたため、2月15日には所領を遠江浜松藩に移封され、入れ替わる形で松平資訓が入るが、寛延2年(1749年)10月15日に京都所司代に任じられたため、遠江浜松藩に再封される。

入れ替わる形で松平信復(信祝の子)が7万石で入り、ようやく藩主家が定着した。

歴代藩主の中で最も有名な藩主が、第4代藩主の松平信明である。信明は天明8年(1788年)4月に老中に任じられて、松平定信の寛政の改革に参与した。寛政5年(1793年)、定信が辞職すると老中首座となり、事実上の最高権力者として幕政を主導した。信明は享和3年(1803年)12月に老中を辞職したが、文化3年(1806年)5月に復帰し、再び老中として幕政を主導している。

第5代藩主・松平信順は大坂城代・京都所司代を歴任した後の天保8年(1837年)5月16日に老中になるが、8月6日には辞職している。

最後の藩主・松平信古は大坂城代に任じられて、幕末における畿内の混乱収拾に務めた。慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が起こると、藩内では佐幕派と尊王派が分裂して抗争するが、2月に新政府軍が吉田に迫ると尾張藩の斡旋もあって、3月に信古は上洛して新政府に降伏した。

明治2年(1869年)6月17日、版籍奉還により信古は吉田藩知事に任じられる。しかし信古は早くから幕府を見限って新政府に降伏していた伊予吉田藩と同名であることを嫌って、6月19日に豊橋藩と改称した。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で豊橋藩は廃藩となり、豊橋県、額田県を経て、愛知県に編入された。

藩政
吉田藩は小笠原氏が入部するまで、短期間で藩主家が代わることが多かった。このため、藩政における治績は松平忠利時代の寛永5年(1628年)に行なわれた検地くらいである。

小笠原氏は52年間の入封の中で、新田開発や吉田城と城下町の改築・整備(向山に大池を造り、そこから惣濠(外堀)に水を入れ、その残りを吉田方の田畑の灌漑に用いた)を行ない、藩政の確立に務めた。

小笠原氏移封後は再び短期間で移封される時代が訪れ、大河内松平家が入部するまでは治績はほとんど無い。

大河内松平家の第2代藩主・松平信復は宝暦2年(1752年)7月に藩校・時習館を創設した。第4代藩主・信明は老中として幕政参与することが大半だったために治績は無く、第5代藩主・信順は先に述べたように老中職を短期間で辞職している。これは天保4年(1833年)12月の新居宿の打ちこわし、辞職後の9月に起こった加茂一揆などが起こったように、藩財政が苦しかったためと思われる。

第7代藩主・松平信璋は幕閣にはならず、もっぱら藩政改革に専念した。嘉永元年(1848年)9月には家臣の知行借上、御用金調達、諸経費4割節減を目的とした5カ年計画を実施したが、嘉永2年(1849年)7月27日に死去するという悪条件のため、改革は挫折した。このため、吉田藩の財政は苦しいまま、明治時代を迎えた。

吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。

歴代藩主
松平(竹谷)家
譜代 3万石

家清(いえきよ)
忠清(ただきよ)

松平(深溝)家
譜代 3万石

忠利(ただとし)
忠房(ただふさ)

水野家(沼津)
譜代 4万石

忠清(ただきよ)

水野家(山形)
譜代 4万5000石

忠善(ただよし)

小笠原家
譜代 4万5000石→4万石

忠知(ただとも)〔書院番頭・大番頭・奏者番・詰衆〕
長矩(ながのり)〔奏者番・寺社奉行〕
長祐(ながすけ)
長重(ながしげ)〔中奥小姓・側小姓・書院番頭・奏者番・寺社奉行・京都所司代・老中・西の丸老中〕

久世家
譜代 5万石

重之(しげゆき)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・老中〕

牧野家
譜代 8万石

成春(なりはる)
成央(なりなか)

松平(長沢・大河内)家
譜代 7万石

信祝(のぶとき)〔奏者番・大坂城代・老中〕

松平(本庄)家
譜代 7万石

資訓(すけのり)〔奏者番・京都所司代〕

松平(長沢・大河内)家
譜代 7万石

信復(のぶなお)
信礼(のぶいや)〔奏者番〕
信明(のぶあきら)〔奏者番・側用人・老中〕
信順(のぶより)〔奏者番・寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中〕
信宝(のぶたか)
信璋(のぶあき)
信古(のぶひさ)〔奏者番・寺社奉行・大坂城代〕

2009年01月20日

吹奏楽団を対象にしたコンクール

日本では、アマチュア吹奏楽団体、特に中高生団体を対象にしたコンクールがいくつか開催されている。特にほとんどのアマチュア吹奏楽団体が加盟する全日本吹奏楽連盟により行われるコンクール、コンテストが最も規模の大きいものとなっている。

全日本吹奏楽連盟の主催による大会
全日本吹奏楽コンクール - 毎年夏から秋にかけて行われる日本で最も規模の大きな吹奏楽編成のコンクール。いわゆる大編成部門・A部門などの呼称で各都道府県・支部で予選が行われるコンクールの最上位大会。中学・高校・大学・職場・一般の各部門から成る。
全日本アンサンブルコンテスト - 毎年冬から春にかけて行われる3人から8人による管打楽器アンサンブルを対象にしたコンテスト。中学・高校・大学・職場・一般の各部門から成る。
全日本吹奏楽連盟以外の主催による大会
全国高等学校総合文化祭 - 文化庁、全国高等学校文化連盟主催。毎年夏に行われる祭典。コンクールとは性質を異にする。
中部日本吹奏楽コンクール - 中日新聞社、中部日本吹奏楽連盟主催。中部地方において夏に開かれる大会である。
支部吹奏楽連盟の主催による大会
東日本学校吹奏楽大会 - 北海道吹奏楽連盟・東北吹奏楽連盟・東関東吹奏楽連盟・西関東吹奏楽連盟・東京都吹奏楽連盟・北陸吹奏楽連盟主催によるコンクール。当該吹奏楽連盟において小編成部門やB部門などの呼称で各都道県・支部で予選が行われるコンクールの最上位大会。小学生・中学・高校から成る。
これらのコンクールは、アマチュアのレパートリーの拡大・技術の向上に大きく貢献しているが、その一方で、

時間制限による不自然な曲の改竄(カット)の蔓延
レパートリーの偏り(多様な曲に目を向けず、上位大会の選曲を模倣する団体も多く存在する)
実際の音楽よりもコンクールの賞のみで団体を評価してしまう傾向
などの問題点も指摘されている。

作曲コンクール
吹奏楽編成の曲を公募する作曲コンクールもいくつか存在する。

東京佼成ウインドオーケストラ作曲コンクール - 東京佼成ウインドオーケストラが主催し、2006年より3年おきに開催されている作曲コンクール。
朝日作曲賞 - 朝日新聞社および全日本吹奏楽連盟が主催し、毎年開催されている作曲コンクール。入選作品は原則として全日本吹奏楽コンクール課題曲となる。

[吹奏楽の作曲家と作品
吹奏楽曲の記事のこと。

アダム・ゴーブ:アウェイデイ、メトロポリス、アドレナリン・シティ、イィディッシュ・ダンス など
アルテュール・オネゲル:バスティーユへの行進 など
アルフレッド・リード:アルメニアン・ダンス(パート1・パート2)、エルサレム賛歌、吹奏楽のための「ハムレット」への音楽、オセロ、法華経からの三つの啓示、音楽祭のプレリュード(1970年度全日本吹奏楽コンクール課題曲)、サスカッチアンの山、春の猟犬、ロシアのクリスマス音楽 など
イダ・ゴトコフスキー:春の交響曲、耀かしい交響曲、森の唄、炎の詩 など
ヴァーツラフ・ネリベル:交響的断章、フェスティーヴォ、世の終わりへの行進 など
ヴィットリオ・ジャンニーニ:交響曲第3番、変奏曲とフーガ など
ウィリアム・シューマン:ジョージ・ワシントン・ブリッジ など
ウィリアム・ヒル:セント・アンソニー・ヴァリエーション など
ウィリアム・フランシス・マクベス:マスク、水夫と鯨、カント(1978年度全日本吹奏楽コンクール課題曲) など
ヴィンセント・パーシケッティ:交響曲第6番、吹奏楽のための詩篇 など
ウォーレン・ベンソン:落葉、舞曲-追憶 など
エドワード・グレグソン:王は受け継がれゆく、剣と王冠、フェスティーボ など
エリオット・デル=ボルゴ:シンフォニック・スケッチ、古代の歌と踊り など
エリック・ウィテカー:ゴースト・トレイン、ラスベガスを喰い尽くすゴジラ、クラウドバースト、オクトーバー、スリープ など
オットー・M・シュワルツ:ノストラダムス、フォー・ザ・ネクスト・サウザンド、モンブラン など
カーター・パン:スラローム など
カール・タイケ:旧友 など
カール・フランカイザー: ヒッコリーの丘、鐘楼よりの展望 など
キース・フラク:イスラエルの挨拶、キルケニー狂詩曲、パリへの夜間飛行 など
グスターヴ・ホルスト:吹奏楽のための第1組曲・第2組曲 など
クリフトン・ウィリアムズ:ファンファーレとアレグロ、交響組曲(シンフォニック・スィート)、シンフォニック・ダンス第3番「フィエスタ」 など
クロード・トーマス・スミス:フェスティヴァル・ヴァリエーション、華麗なる舞曲、ルイ・ブージョワの賛歌による変奏曲 など
サミュエル・R・ヘイゾ:日本民謡による幻想曲〜「砂山」の主題による、ライド! など
シーザー・ジョヴァンニーニ:コラールとカプリッチョ など
ジェームス・カーナウ:よろこびの翼、歓喜(「われらが神はかたき砦」による幻想曲)、ローン・スター・セレブレーション など
ジェイムズ・スウェアリンジェン:栄光のすべてに、センチュリア、狂詩曲ノヴェナ、インヴィクタ序曲、ロマネスク、シーゲート序曲、誇りと祝典、チェスフォード・ポートレート、マジェスティア、アヴェンテューラ、管楽器と打楽器のためのセレブレーション、不滅の光、勇敢な飛行、歓喜の序曲 など
ジェイムズ・バーンズ:祈りとトッカータ(呪文とトッカータ)、パガニーニの主題による幻想変奏曲、アパラチアン序曲、アルヴァマー序曲、詩的間奏曲、交響曲第2番、第3番、第4番「イエローストーン・ポートレート」、第5番「フェニックス」 など
ジム・アンディ・コーディル:バンドのための民話 など
ジャック・スタンプ:乾杯!、クラウドスプリッター・ファンファーレ、新時代へのファンファーレ、バンダンシング、ベルト・ウェイ・ジャム など
ジョゼフ・オリヴァドーティ:薔薇の謝肉祭、イシターの凱旋 など
ジョゼフ・シュワントナー:…そしてどこにも山の姿はない、暗黒の一千年代、夕闇の静寂にて(「静められた夜に…」の訳でも一般に知られている。また、以上の3作はオーケストラの管楽器パートに基づいた特徴的な楽器編成によるものであり、ごく狭義の吹奏楽には該当しない)、リコイル〜ウインドアンサンブルのための〜(通常の吹奏楽編成による。しかし打楽器群はやはり拡大されている。女声合唱アンサンブルも含まれている)など
バース むぐら ティラミス スカーレット テキーラ 吉日 メルルー ももいし 高潔 サーチ花粋 オーラップ フロア ブイヤ マデイラ シュロ コムタン 滝の白糸 西村 ネガ トール いこて ツリフネソ ミドル マインド ビッグ ラット レックス 夾竹桃 キエフ ラクーン ブルガリ チョッパー メンデル バリウ モルガ ピュアコ バグダッド ひおき マイナ トウガラシ なんぽろ ライフボート ルミッ リアダ ステロール ジャスミン 水玉シャツ ジャンボ シプル パスボール

ジョゼフ・スパニョーラ:エスカペイド など
ジョン・バーンズ・チャンス:朝鮮民謡の主題による変奏曲、呪文と踊り など
ジョン・フィリップ・スーザ:星条旗よ永遠なれ、ワシントン・ポスト、美中の美 など
ジョン・マッキー:レッドライン・タンゴ、サスパリラ など
スティーヴン・メリロ:ゴッドスピード!、アメリカの騎士、プラトンの洞窟からの脱出 など
スティーヴン・ライニキー:激流の中へ、自由の肖像、神々の運命、ここに鷲は舞い上がる など
ダリウス・ミヨー:フランス組曲など
デイヴィッド・R・ホルジンガー:大空への挑戦、祭礼の舞、「春になって、王達が戦いに出るに及んで…」 など
デイヴィッド・ギリングハム:交響詩「ベトナムの回顧」、ウィズ・ハート・アンド・ヴォイス、エアロダイナミクス など
デイヴィッド・ボブロヴィッツ:オールド・マタドール、チャヌーカ・セレブレーション など
デイヴィッド・マスランカ:交響曲第3番、イン・メモリアム、子供の庭の夢 など
ティモシー・マー:イントゥ・ジ・エアー!、エンデュランス、ソル・ソラーター など
デリク・ブルジョワ:交響曲第6番「コッツウォルド・シンフォニー」、ウインド・ブリッツ、シンフォニー・フォー・ウィリアム など
トーマス・ドス:シダス、モンタナ・ファンファーレ、マジック・オーバーチュア、アウローラ、セント・フローリアン・コラール、アルピナ・サガ、ニクス など
ドナルド・グランサム:サザン・ハーモニー、幻想的変奏曲、J.S.ダンス、舞楽 など
ナイジェル・クラーク:ブレイキング・ザ・センチュリー、ガガーリン、サムライ など
ナイジェル・ヘス:イースト・コーストの風景、グローバル・ヴァリエーションズ など